ワイルドガンマン(横井军平游戏馆原文摘录)
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1974(昭和49)年16ミリフィルムを使った、実写による射撃ゲーム、当時はその仕掛けが注目を集めた。 レーザークレーは評価は高かったものの、オイルショックと重なってたいへんな損害を会社に与えることになった。それ以前の任天堂の商品は、あくまでも玩具で、単価が1万円以下のものが中心だった。しかし、レーザークレーは大仕掛けのレジャー施設で、この失敗は玩具とは桁が違うのである。これ以降、任天堂にとっては辛い時代が1980年のゲーム&ウォッチの登場まで続くことになる。 ところが「辛い時代」と言っても、それはあくまで会社の台所がという意味で、開発マン横井氏は次々とアーケードゲームの名作を生み出していく。読者の中にも読み進めるにしたがって「ああ、あれのことか」と思い出す方もいらっしゃるだろう。 アーケードゲームとして最初に横井氏が作ったのは、「ワイルドガンマン」という射撃ゲームだ。うまく当たった場合と、当たらなかった場合で違う映像が現れるというのがこのゲームの面白さだ。今から考えると、ゲームとしてはごく当たり前のものように思えるかもしれないが、当時はコンピュータグラフィックスはもちろん、ビデオすら普通には使われていない時代。16ミリフィルムを利用して、映像を分岐する仕組みを作り上げたのだ。なお、ワイルドガンマンのバリエーションである「ファッシネーション」は、現在でいう脱衣ゲームの走りである。こちらもゲームの歴史を考える上ではなかなか見逃せないゲームだ。
- どうせやるなら、おおげさに作ってやろう
レーザークレーなんかでおおげさものを作ることは慣れていましたから、今度もおおげさに作ってやろう」と、「ワイルドガンマン」を作ったんです。私にしてみれば、採算を度外視した試作品にすぎないのですけど、とりあえず試作してみたら、すごく評価されて、「販売した方がいい」と言われまして。それで、販売することになったんです。 「ワイルドガンマン」はアメリカ西部劇の早撃ちゲームですね。画面の中にガンマンが出てきて、そのガンマンより遅く抜いて早く撃つというゲームです。それで映写機を2台準備して勝った映像と負けたときの映像を自動的に切り替えるようにしました。うまく当たったときはガンマンが倒れる映像、はずれたときはニヤッと笑って立っている映像ですね。 引き金を引くと、煙がわあっと立ち上がるシーンを入れました。そこで、映像を切り替えるわけです。映写機が切り替わる瞬間を煙の映像でごまかしたわけですでも、見た人はびっvりしましてね。「なんで勝ったときはばったり倒れて、負けるとガンマンが笑っているんだ」って。 それで、ゲームセンターが看板がわり置きたいということで、たくさん注文がきたんですよ。でも、これは量産することは考えていない機械ですからね。16ミリのフィルムなんて、耐久力なんかまるでない。 本来フィルムというのは、機械負担かけないように切れやすくできている。そこで、富士フイルムも巻き込んで、テトロンの切れないフィルムを開発してもらいました。「そんなフィルムを使ったら、機械がつぶれる」と言われましたけど、「フィルムが切れなければ機械がつぶれてもかまわない」って言い張ってそれである程度の耐久性が生まれたんです。 エンドレステープは機構的にフィルムが傷つきやすいので、友禅方式というのを考え出しました。全部プーリーで巻くようにしたんですね。こんないろいろ工夫をして、やっと五百回とか千回とかの耐久性になったんです。
- 実写映像で金髪の女性が…。
「ワイルドガンマン」を発表するときに、新聞記者は男ばかりなので、なにか面白いことができないかと作ったのが「ファッシネーション」です。女の子が音楽に合わせて踊っていて、映像が止まって洋服の結び目を指差すわけです。そこを撃って当たると、服が脱げ落ちる。一回も失敗しないで全部当てると、丸裸になるんですね(笑)。 これが受けましてね。売るつもりではなかったんですけど、新宿のゲームセンターが試作品を持っていってしばらく置いていました。なにしろ実写映像ですからね、そりゃ受けました。スウェーデンのモデルを使いまして、私も撮影に立ち会いましたけど、それはきれいなモデルさんでした。当時はコンピュータグラフィックスの時代じゃなかったですから、実写映像が自分でどうにかできるという面白さを狙ったんです。まあ、今だったらビデオテープで簡単にできるんでしょうけど、当時は16ミリフイルムしかありませんでしたから。 ワイルドガンマンは面白いと見えて、世界中に売れました。といっても、全部で百台ぐらいですけどね。それぐらいやらなければならないほど、任天堂は苦しかったんですね。脚光は浴びたけど、売るにはたいへんな代物だったんです。神戸のゲームセンターで置いたら、黒山の人だかりになって、警察から交通渋滞になるというんで怒られたこともありました。 このゲームのおかげで、「本物は誰だ」というテレビに出ることになりました。「このゲームを作った本物さんは誰だ」というわけでね。解答者が宍戸錠、江利チエミ、司会者が土井まさるでした。任天堂の儲けにはつながらなかったですけど、インパクトだけはあったようです。